昨日は8/6日でした。「終戦」と「敗戦」のどちらで表現すべきかという問題があるけど、負けた事を恨みに思わないというスタンスを貫くためには、終戦という言葉でもいいような気がする。
去年かその前かの終戦記念日の時にも書いたんだけど、原爆や戦争に関する言葉については知らない人間には何を語る権利も無いわけだし、だから自分はこういう時に放送される番組をただ見たり、聞いたりという態度を大事にしたいと思う。語る人の言葉をちゃんと聞いておく事が、一定のスタンスを自分の中に作るんじゃないかと思っているし、それが追悼乃至は慰霊に通じるんじゃないか。ただ、その結果自分の心の中に生まれてくるものは、普通の人間とは違ったりしてるのかもしれないとふっと思う事がある。
TVでも色々放送していたけど、やっぱり6chの筑紫哲也氏系の番組が力入ってたと思う。あと、美空ひばりさんが最後に歌ったのは、東京ドームではなく、広島での「一本のえんぴつ」という曲だった、という報道ステーションの小特集も良かった。5日のニュース23(ストーンウォーク等の特集。石をみんなで動かすという、あまりに重々しく無意義的に見える(何かを引いて運ぶという行為には、キリスト教の人々には宗教的に通じるものがあるのかもしれない)一般市民的行為の大きな重さ)の、坂本龍一と元ちとせの「死んだ女の子」という曲もほんとうに、凄いステージだったと思う。色々番組今後もあると思うけど。「戦争は人間のしわざです」という故ヨハネパウロ教皇の言葉を語った、平和祈念式典での少年少女の声は、重さと響きを持っていた。
自分が絵を教わっていた、初代ウルトラマン・セブンや各怪獣のデザイナーだった彫刻家の、成田亨氏(2002年没。 展覧会は8/14まで)は木下慶介作品の「この子を残して」の特撮美術を担当したこともあり、生前「原爆投下の瞬間」を描きたいと願っていたそうだ。この事はフィルムアート社刊の著書「特撮と怪獣」にも書かれていて、自分には「油絵で被害者の視点からのアニメーションを作りたい」とも言っていたのだが、本によると元々それは「この子を残して」を撮る際に予算的にできなかったことだったようだ。
成田先生の晩年のテーマは一種の「絶望」だったわけで、それをかなえて欲しいとも過去の自分は思ったわけなんだけど(Uジンの企画と同様)、自分は絶望のみをテーマにして作品を書く事は今はしたくないと思うし、それをしたいと願った先生がそれのみに固執することが無かった事は(いやかなりこだわってた筈ですが)、多くのファンがせめても存在した意味を持っていたんじゃないかと思って、少しほっとしていたりする。だから、原爆の語り部の方々がずっと原爆を語り続ける事についても、本当は固執して欲しくないと思う。
若い者が起こす事は若い者の責任なのだから。戦争は起こそうという人間がいない限り、起きないのだから。
自分は核兵器についてとか、戦争についての作品っていうのは趣味の同人でも描いた事が無いんだけど、一度だけ作品の中で核兵器のシーンを出した事がある。「仮面ライダーBlack最終回前後編」という脚本形式の小説がそれで、要はTVでやってたシリーズの最終回を途中から分岐させて自分なりに勝手に書いてみたというものだったんだけど、そのラストが核実験のシーンで終わる。主人公2人がEP党とゴルゴムを倒し、一つになったキングストーンを珊瑚の海へ落としていくんだけど、EDが終わった後にフランスのムルロア環礁での核実験のシーンが入るっていう。
たぶんこれは石森章太郎氏が70年代に書いたオムニバス短編のラストシーンから来た表現なんじゃないかと思う(反戦漫画って色々あったよね。手塚治虫氏も多く描いていたと思うし)。
ライダーがどんなに命をかけて戦っても、人間ってものは本質的に駄目なのかもしれない、っていうラスト。(ムルロア環礁以来あまり核実験が起こってない事は救いなんだけど) ていうかフィクションで起こった全ての物語から現実に話を落とすためにそうしたというのもあるけど。
たぶん自分にとっての戦争っていうのは、その脚本で書いたように、徹底して人間の心の中から起こってくる問題であって、人間が人間でありつづける限り、回避できない事なんじゃないか、と思っているような気がする。いじめを起こす感情と戦争をしたがる感情は同じだっていう。言わば人間とか国家に対して、希望を持っていないのかもしれないんだけど。たぶん自分が希望を持つ対象ってのは、今は数少ない個人に対してなんだよね。人類とか、国家とか、そういうマクロな対象に対してじゃなくて。本当はマクロなものが全てを決定してしまうのに。
(余談:もう一つ思う事は・・・自分はアトムにしろ、サイボーグにしろ、体内に原子炉を持っている等身大キャラクターに異常に感情移入する傾向がある。自分は自分自身を核的存在と感じているんだと思う。
自分が趣味の同人作品等で戦争を描く事はしばらく無いと思う。ただその作品(前編は88年、後編は99年なので、足掛け12年の作品だったわけだが)からもう6年位経っているので、その間世の中も変わったし、何か書くべき何かが心に生まれたら書くかもしれない。)
自分は、原爆の犠牲者の方が既にどこかに生まれ変わっていてくれることを望んでいたりもする。優しかった人、軍国主義の人、色々亡くなった人にはいただろうから、今幸せか不幸せかは人それぞれだと思うし、キリスト教的に言うなら個々の人々への「報い」は多分別々であるべきなのだが、・・・それすら無意義化する位の暴力が核兵器なんだよね。
広島と長崎で同時に十数万の人々が亡くなったというその命の力が、平和を望む人々を支え、その後の核兵器の実戦使用をおこさせないという奇跡を生んでいる。その奇跡はいつかとだえるかもしれないけど。例えそんな日がくるにしても、生死を問わず被災者の方々が気にやむ必要は絶対無い。それは後の世代が負うべき責任になるからだ。 |